話の広場
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お風呂の時間を楽しく過ごそう

楽しく風呂で時間を過ごす方法と言う記事がありました。風呂は身体を洗うだけのものではなく、健康の秘訣も私たちに提供してくれるようです。半身浴をすれば汗が出てくる。それが、風邪などを癒すことが出来るそうです。18世紀始めのオランダの名医・ポールハフエさんが残した言葉です。
「頭を冷やし、足を暖かくし、身体を窮屈にするな、」日本で使われる言葉の頭寒足熱です。これが、まさに半身浴です。「冷え」はなぜ万病のもとになるのか?「冷え」があると血管が縮んで循環不良が起きますから、血行不良になる。そうすると、当然細胞に必要な養分が届きません。必要なものが届かないので疲労物資が出てゆきません。
体温計で36.5度であるなら健康であるといわれています。35度以下になると癌細胞が最も活動できる環境を作ることになるそうです。体温計で36.5度がでたとしても、足の先などは31度だそうです。同じ身体であっても場所によって体温の差があるので、この体温の差が血液の流れをスムーズにしない。すなわち多くの病気をつくる原因になるそうです。
私たちの先祖はひとつの治療法を心得ていました。それが「湯治」つまり「湯治場」です。それで健康を保っていたようです。半身浴マスター法は、先ずは、みぞおちから下を汗が出るまで20分つかる。慣れないで寒いような気がする時は、20〜30秒肩までつかることだそうです。

個別ページへ |Posted 2007.12.21|

青森・弘前公園・2632本の桜

hirosaki7.JPG2632本の桜の維持費予算は、市民も納得して年間、5億3千万円。桜の寿命は約60年ですが、270年を超える木もあります。長く持たせる方法は新しい枝がでてきたら親木を切ると、新しい枝葉はその長さが老木の中に根を張るそうです。

個別ページへ |Posted 2007.9.18|

日中の壁を越えた夫婦愛

第2次世界大戦の最後「日中の壁を越えた夫婦愛」の映画の挨拶をさせていただきます。中国最後の皇帝の弟、溥傑(ふけつ)と日本人妻の浩(ひろ)が支え合い、時代の荒波に立ち向かった実話をドラマ化した放送が3年ほど前にありました。中国清朝の“ラストエンペラー”溥儀の一歳違いの弟・溥傑は辛亥革命で清朝滅亡後、成人して日本に留学。その直後に日本の関東軍が中国北部で満州事変を起こして「満州国」建国。溥儀を皇帝に据えました。
溥儀は士官学校を経て、日本陸軍に入隊しましたが、満州支配を強めたい関東軍は、皇帝一族と日本女性との「政略結婚」を画策・そこで、嵯峨野公爵家の浩(ひろ)に矢を立てました。日中の戦況悪化のなかで満州に渡った浩は、日本人嫌いの溥儀に心を痛めながら、誠実で穏やかな溥傑との愛を深め、二人の娘を出産しました。だが幸せは日本の敗戦で暗転して、引き裂かれた夫婦の流転の日々が始まりました。
この脚本は二人の自伝をベースに感動と涙の物語の作家「星の金貨」の龍居由加里さんが手掛けました。溥傑役は竹之内 豊さん、髪を刈り、常にメガネをかけて役つくり、せりふの半分は中国語をマスター。対する浩役は常盤貴子さん。撮影は東京都内の空き地に長さ120mのセットを組み、満州の町並みを作ったそうです。衣装や小物類もトラック5台分を中国から取寄せました。生き証人も多いので徹底してリアリテイーにこだわったそうです。3ヶ月かけた撮影は新型肝炎の余波で中国ロケが白紙にもどり大混乱しましたが、スタッフの活躍で代替地を確保、3日間の北京ロケも実現しました。
堂々たる紫禁城を借り切った収録は海外作品では、映画「ラストエンペラー」以来だったそうです。私は、若い頃に芝居にのめりこんでいましたので、非常に印象が残っているドラマです。隠れた話では、中国最後の皇帝「溥儀」を救うために、現在の各務原市の航空自衛隊基地から離陸許可を待っていた人がいたそうです。戦争責任を論じられることが多くありますが、心温まる話です。

個別ページへ |Posted 2007.8.15|

遊 行 僧 【 円空 】 作・演出 こばやし ひろし

遊行僧「円空」は、岐阜県羽島市の出身、円空誕生の地「羽島市文化センターみのぎホール」で2007年2月3日(土)、4日(日)の両日、「劇団はぐるま」(http://www4.ocn.ne.jp/~haguruma/)により4回の公演が行われた。劇団はぐるまは2004年に創立50周年を迎えている。劇団はぐるまの創立者はこばやしひろし氏である。「円空」の作・演出 こばやしひろし氏は、このホームページの作成及び管理者の恩師、恩人である。この芝居が上演されるにあたり「庶民の中のエンクさん」として紹介されている内容を載せることにしました。
日本の坊さんくらい表向きと本年が違う存在はない。「ゴインサン」とか「ゴエンサン」(御院住さんが転じたもの)とたてまつるが裏に回ったら「坊主、くそ坊主」である。私は僧侶である。いろんな経験がある。私が法衣を着て交差点で赤信号を待っていたら、トラックがとまり、運転手が私の顔をみるやいきなり「坊主坊主!くそ坊主」といってぺっとつばを吐いた。むろんつばは届かなかったが、妙に私は腹がたたなかった。朝、職場で上司に叱られ、たまったものを私にぶつけたものかのかなと思っただけである。
あるスーパーでこんあこともあった。子どもが私の顔を見るなり、親しげに「お乞食さん、お乞食さん」というのである。あわてたのはそのお母さんである。見ると毎月、月参りに行く時にお茶を出してくれる御門徒のお嫁さんである。子どもを叱りひきずるように逃げ去った。毎月お布施を押しいただいているからお乞食さんに見えたのだと思う。私は、これでいいと思った。坊さんは庶民の悩みを共有する立場から離れてはいけないはずだ。虚勢を張るからくそ坊主に転落するのである。
エンクさんと親しく呼ばれた円空は虚勢とは縁のない人である。だから全国を遊行して回っても江戸や京都に居つく人ではなかった。地方を求め、岩屋を求め、アイヌを求め、木っ端を求めて仏を刻んで歩いた人である。木彫りの仏像は日本だけとは知らなかったが、そういえば中国の仏さんは石像か金銅物か、乾漆仏で見られるように大きく、金銀朱がごってり塗ってある。一つの権威である。ところが木はどこにでもある。木くらい日常生活に欠かせないものはない。それが仏になるのである。それも何も塗ってない【しら木】の仏さん。エンクさんの仏には権威のひとかけらもない。これこそ庶民の仏さんといっていいだろう。その庶民のエンクさんを舞台に乗せなければならない。
?円空(えんくう)寛永9年(1623年)美濃の国に生まれる。幼い頃、母を洪水で亡くす。20代半ば修験の道にはいり、その後、津軽、北海道に渡る。?伊吹修験(いぶきしゅげん)伊吹山は滋賀県米原氏伊吹と岐阜県揖斐川町春日の境に位置する。標高1,377メートルの霊山である。記紀神話には「荒神」(荒ぶる神)として霊威が知られている。
こうした荒々しい霊がとどまる山で修行する修行者は、優れた霊力を保持する宗教者として民衆から尊敬されていた。円空は北海道の洞爺湖観音の観音像の背名に「江州伊吹山平等岩僧内」と刻み、伊吹山の行道岩を巡る修行をしたことが知られる。

個別ページへ |Posted 2007.3.10|

立春大吉 丁亥二黒土星の歳(2007)

運勢学上の一年は立春から始まります。いよいよ意味での『丁亥(ひのとい)の二黒土星の歳』が始まりました。母なる大地の星・ニ黒土星が支配する今年のキーワードは『感謝と労い』そして『普通と当然』です。
今年は、今までと同じであることの可否が問われ、『普通』の懸念が大きく揺れ動く予感。私たちも当然と思っていた存在や行動を見直し、『当然』ではなく『有難い』ことに対しては、あらためて感謝を捧げ、労い、大切にしなくてはなりません。存在することが『当然』ではないものは排除し、存在すべきものの存続をはかる努力も不可欠です。狂ってきた『普通』と『正常』のブレを修正する必要もありそうです。
        「東京・聖徳会 三須啓仙 ・源 真理 両氏の立春賀状より」

個別ページへ |Posted 2007.2.4|

弾圧1万人を超 1947年台湾「2・28」事件

1947年、台湾国民政党が台湾住民に血の弾圧を加えた、2・28事件。間もなく60年がたつが、この事件について台湾人女性が「日本人も悲惨な歴史を忘れないで欲しい」と訴えている。複数の日本人が「反乱分子と」と名指しををされ、犠牲になった可能性があるためだそうだ。土着の台湾人エリートが標的になった、「2・28事件」でなぜ日本人が狙われても不思議ではなかったのか。

06年9月に来日し11月にかけ2・28事件に日本人被害者がいる可能性と各地で講演した台湾人の阮美妹(げん・みす)さんが語り始めた。終戦直後中国大陸から台湾へ渡ってきた国民党が、日本統治時代に教育を受けた台湾人エリートなどを「反乱分子」として虐殺した事件。犠牲者は推定18,000人〜28,000人で、未だに行方不明の人が多い。事件後に敷かれた戒厳令は1987年まで続き「白色テロ」と呼ばれる暗黒政治を生み出した。

事件は中国大陸からきた外省人に対し、台湾本省人の根強い不信を生む原因になった。阮さんは本省人で父親を失った遺族である。47年3月父親の阮朝日さんは台北市内で5人の男に自宅から連行されて、2度と戻ってこなかった。父親は当時日刊紙の社長をしていた。事件から半世紀、国民党が反乱を「首謀」したとして20人の容疑者を挙げた資料を発見した。

その中に日本人らしき名前が載っていた。「堀内金城」「植崎寅三郎」2人とも「台湾人の反乱を策動した」「日本の地下スパイ網を組織し軍政情報を探り出した容疑」となっている。太平洋戦争に敗れ、日本は台湾領有を放棄したが、その後も日本人の技術者ら7,000人、その家族20,000人が台湾にとどまった。これは、国民党政権が日本人を行政事務のほか鉄道事業や工場経営などの人材として残す「留用」という措置を取ったためだった。

歴史小説「台湾処分」の著者・青木茂夫氏は真相解明は言論自由化とともに進み、2000年国民党に対抗する台湾本土派の民進党が政権を奪って「2・28事件は、当時の最高権力者、蒋介石が起した計画的殺人であった」断じられるまでになったが、08年3月の台湾総統選で国民党が政権をとれば真相解明が進まなくなる!という。           「2006年10月26日(木)中日新聞夕刊記事より」

HPの管理者の心境:妻は敗戦当時は台北市川端町に住んでいた。1946年4月に蒋介石のおかげで日本に引上げることが出来たので感謝している。まことに判断に苦しむ2・28事件である。

個別ページへ |Posted 2007.2.1|