話の広場
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徳川歴代将軍の誕生日と、慶応4年4月1日(1868年)江戸城無血開場

第1代・徳川家康(1542年12月26日生) : 第 9代・徳川家重(1711年12月21日生)
第2代・徳川秀忠(1579年 4月 7日生) : 第10第・徳川家治(1737年 5月22日生)
第3代・徳川家光(1604年 7月19日生) : 第11代・徳川家斉(1773年10月 5日生)
第4代・徳川家綱(1641年 8月 3日生) : 第12代・徳川家慶(1973年 5月14日生)
第5代・徳川綱吉(1646年 1月 8日生) : 第13代・徳川家定(1824年 4月 8日生)
第6代・徳川家宣(1662年 4月25日生) : 第14代・徳川家茂(1846年 5月24日生)
第7代・徳川家継(1709年 7月 3日生) : 第15第・徳川慶喜)1837年 9月29日生)
第8代・徳川吉宗(1684年10月21日生) :

慶応4年4月11日・江戸城無血会場・勝海舟の談話にあるように、勝海舟と西郷隆盛との会談により江戸城の無血開城が実現したという誰もが知っている常識と言ってもいい。NHKの番組で述べているような天璋院篤姫の西郷隆盛宛の手紙が江戸城無血開城に大きな役割を果たした

個別ページへ |Posted 2010.12.20|

イルミナティ・フリーメイソンのメンバーは 【創造主なる神を認めない】

イルミナティ・フリーメイソンは「創造主なる神」を認めないがゆえに、自分たちが神であるような錯覚を持ち、行動を開始する。彼らがどんな自負心ををもとうと、自分たちがどれほどエリートであると自負しようと結局は人間である。イルミナティ・フリーメイソンは、今2つの大きな地下組織が合体したものである。やがて激しい内部対立が起きる。宗教的な組織であったフリーメイソンが、イルミナティという世界支配を目指す政治組織の中に食われてしまったのである。そして、もうひとつは繰り返し言われているように、ユダヤ地下組織・サンヘドリンの存在である。

ロスチャイルド家は世界全体の富の半分をそのまま掌中に収めたと言われている。従って世界経済の運営を考える時、ロスチャイルド家を無視することはできない。ロスチャイルド家はユダヤ地下政府とつながりのある強力なメンバーである。このようなことからイルミナティ・フリーメイソンとユダヤ地下政府が世界政府を作ろうとしているわけである。EUが「ヨーロッパ合衆国」建設していく背景に、この二つの組織の合体があることを知らなければならない。2008年アイルランドはEU憲法を否決した。しかし、ロスチャイルド家は自らのアメリカにおける金融拠点であった、リーマン・ブラザーズを崩壊させることによって、アイルランドをも巻き込んだ世界大恐慌へのスタートを切ったわけである。

今後、常にこの二つの組織が合体しつつ世界支配に向かって動いていくと思われる。イルミナティ・フリーメイソンは主に白人たちの世界支配グループである。自分たちはエリートであるという意識は非常に強いものがある。従って世界中にあるフリーメイソン、すなわち黄色人種や黒人たちも一部は含まれていても、結局はある時点で、振り落とされていくことになるであろうと筆者は言う。
ユダヤ地下組織、すなわちサンヘドリンは本当のユダヤ人たちのグループである。紀元70年、エルサレムが崩壊した時にサンヘドリンは地下に潜った。文字どうり彼らは地下を這うようにして世界中をさ迷い続けてきた。ある時はアフリカ、ある時は中東、またある時はヨーロッパにおいてその拠点を築いてきた。自分たちは選民である。そして自分たちこそが世界統治をしなければならないという自負心を持ち続けてきたと思われる。その怨念は非常に激しいものであった。しかし、イルミナティ・フリーメイソンとユダヤ地下政府は分裂せざるを得ない状況になると言われる。そのことは世界政府樹立後の後に起きると思われている。    (情報元・株式会社 エノク出版2010年5月)

個別ページへ |Posted 2010.10.27|

1910年以来、100年ぶりに公開された豪華絢爛【大山車まつり】の山車

1910年以降はじめて公開・尾張名古屋開府400年で【山車13台】\\\\\\\\\\\\\\\\第56回名古屋まつりが2010年10月16日に開幕した。開府400年を記念した「大山車まつり」が先陣を切り。豪華絢爛の山車が名古屋城を目指し、名古屋市中区の本町通りを練り歩いた。山車は同市の中村区、中区、東区、緑区の各区から13台が結集した。中区の若宮八幡社でからくり人形の演技を奉納した山車が次々に通りに出ると、沿道の見物客から歓声が上がった。本町通りは江戸時代の目抜き通りで、山車が通るのは1910年に催された記録がある。「名古屋城開府300年記念祭」以来、100年ぶりである。名古屋曳絆(ひきずな)会は、100年前の人に負けない技と心意気で盛り上げた。

10月17日には、名古屋城の西の丸広場で名古屋市文化財の山車4台がずらりと並び、天守閣をバックにからくり人形の演技を披露した。この山車が名古屋城に入るのは21年ぶりで、名古屋開府400年の節目に開かれた同日までの名古屋まつりに合わせて、緑区から搬送した。正門をくぐる際には、最上部を解体して入場。囃子の音に合わせ、巧みに操られたからくり人形が台紙に「寿」や「城」と筆書きすると、見物人から大きな拍手が起こった。                       2010年10月16日・17日:中日新聞より
【このホームパージの管理者の思うこと:100年に一度とは観光資源が少ない名古屋にとって寂しいことである。人生で一度も見れない人が存在することになる。今後も多いに、地域内は勿論、日本国内、世界に発信をして頂きたい】

個別ページへ |Posted 2010.10.24|

ビジネスに通じる剣道・弓道の ” 残 心 ”

剣道や弓道で「残心」という言葉があります。
刀を振るって切り結んだ後、敵の反撃に備えて心の構えを崩さないでいること。あるいは矢を放った後、緊張した心をそのまま持続していることいいます。すなわち「終わりを慎むこと初めののごとくあるべし」という教えです。
勢いに任せて突進し、敵を倒したのはいいが、そこで心を緩めてしまうと思いがけない失敗をし命を落とすかもしれない。これは、戦国時代だけの話ではありません。現在のビジネスの世界で現実的な営業姿勢や、そして現場の実施行動にも当て嵌ります。

一つの難関的プロジェクト事業を征服して祝杯を上げるときが要注意である。それは慢心して気が緩めば、すぐに停滞を退化がが始まるからです。迫力は弱くなり、貴重なアイデアは涸れてくる。競争相手は挽回しようとあらゆる手段で巻き返しを狙ってくる。仕事仲間もしかり。いつ後ろから切りつけてくるかわからない。会社経営の【残心】とは、その恐ろしさをしり、勇気と謙虚な心を持ち戦うことではなかろうか。日々の格言として是非、実行語録に加えてください。

本文は、このホームページ管理者が中部経済同友会で尊敬しお世話になっている、岩部建設株式会社の岩部一好氏が自費出版された本を頂戴したので、自分のビジネス決算期34期目の自社、一番心に残る内容を許可なく記載させていただいた。

岩部一好氏は、作家:故・城山三郎しとは非常にご縁の深い方でした。何かにつけてご教示をされています。ご教示された内容の中に「三つの教え」があるといいます。
● 一つ目は「専門の学問をしっかり勉強することによるライセンスの取得と技術力の向上」 
●二つ目は「専門だけだと視野が狭くなるから、社会のこと、時代や世間のこと、何事も学び、特に文化への視野を広くもち続けること」そして
●三つ目は「この世のはすべてに人間が関係しています」と、何度も教えられたそうです。

個別ページへ |Posted 2010.8.21|

納豆を食する大切さ (心筋梗塞や糖尿病の予防)

納豆には脳梗塞や心筋梗塞などの原因となる血液中の血栓を溶かす素晴らしい酵素が含まれていることがわかった。ナットキナーゼは、いまや国際医学語として全世界の人々の知るところとなっている。かって、ソ連が宇宙食としての納豆研究を行ったことがあるそうだ。ナットキナーゼは、高温70度以上ではその効力を失ってしまう。従ってはるか以前から納豆は食べることで効力があるとされてきたことは正しい。

しかしこんにち、納豆は血栓を溶かす素晴らしい働きの他に、多くのパワーを秘めている。従って納豆は生で食べてよし、炒めてよし、揚げてよし・・・あらゆる料理法で私たちに健康を提供してくれる。納豆はいまや国民病とも言われる糖尿病予防のためにも大いなる効力を発揮してくれている。 納豆に含まれているビタミンB2に血糖値を下げる働きがあることはかねてから知られていた。不思議なことにそのビタミンB2は大豆に多く含まれるが、それが発酵して納豆になると約5倍のビタミンB2を含むことになる。

納豆には多くの食物繊維が含まれている。これによってインスリンの分泌が正常な速度で対応することができ、血糖値の急激な上昇を抑えてくれることになる。 糖尿病と共に、今日の生活習慣病の横綱は高血圧症である。これは塩分の塩分の取りすぎによって生じるものであるとされている。嬉しいことに納豆にはレシチンという脂質が大量に含まれていて、悪玉コレステロ^ルを抑えることのできる重要な働きをするとされている。

骨粗しょう症が今日多くの日本人を悩ませている。それはカルシュウム不足から起きてくるものである。カルシュウムを体内に取り込むためにはビタミンDが必要である。しかし、血液の中に多くのカルシュウムを入れたとしても、それを長く定着させるためには、ビタミンK2という物質が必要である。これがなければ骨になりにくいこともわかっている。ビタミンK2は腸内細菌が作り出すものであるとされているが、加齢とともにそれが減少し、必然的にK2が減って骨が弱くなってしまう。これは、骨粗しょう症である。この骨を丈夫にするビタミンK2はは驚くべきことに納豆しか含まれていない。

頭のよい子は、すなわちIQの高い子どもたちはよく納豆が好きであると言われてきてきた。納豆が健脳食として今では全世界が注目している。納豆に含まれているレシチンが脳の働きを活発にして、記憶力を高めていくからである。普通、高齢化が進むと脳の活力は弱っていく。その結果としてボケなどが起きる。納豆はそのような老人性痴呆症を防止してくれる。(株式会社エノク出版・8月号より)

個別ページへ |Posted 2010.8.10|

名古屋城本丸御殿玄関の復元 【2010年秋?】

かって名古屋城の本丸には、天守閣とともに本丸御殿がありました。この本丸御殿は、近世城郭御殿の最高傑作として、現在、国宝になっている京都二条城の二の丸御殿と並び、武家風書院造の双璧と言われた建物です。

勇壮な天守閣と優美な御殿が並び建つことで、名古屋城は城郭建築としての風格を形成しており、1930年(昭和5年)に城郭建築として国宝第一号に指定されましたが、大変残念なことに1945年(昭和20年)の空襲により天守閣とともに消失してしまいました。
しかし、本丸御殿の室内を豪華絢爛に飾っていた、1049面にのぼる襖絵や天井板絵などは、戦災を免れ、国の重要文化財として今も大切に保管されており、また江戸時代の文献や確実な実測図、多くの古写真が残されたいることから、史跡に忠実な復元が可能だそうです。
戦後の復興に伴い、天守閣は、1959年(昭和34年)に多くの市民の熱意に支えられ再建されましたが、本丸御殿の復元はいまだ実現していません。2007年(平成19年)文化庁から現状変更許可がでて、2008年に着工し、名古屋開府400年には玄関の一部を市民に公開できるよう、本丸御殿の復元工事が進められています。
建設中の本丸御殿は風雨から守るために設けられた大きな屋根(素屋根)の中で、一部の木材搬入とともに、足場仮設が進められています。10月の玄関復元に向けて、いよいよ玄関、大廊下の柱や梁などの組みたてが始まるそうです。
(引用文献・名古屋市民経済局)

個別ページへ |Posted 2010.6.22|

日本最初の女優「川上貞奴」生誕140年

東京出身で、芸者時代に書生演劇家の川上音二郎(1864~1911)と結婚。女優と国内外をを巡業し。、帝国女優養成所を開設。音二郎のの死後は木曽川水系の発電所建設で知られる旧知の福澤桃介(1868~1938)をパートナーとして支えた。晩年は木曽川のほとりに貞照寺を建立し他。別荘「晩松園」は国の登録有形文化財となっている。

川上貞奴の生涯を描く創作オペラにお上演にむけ、貞奴とゆかりのある各務原市の有志らが動き出した。出演、音楽、メークとすべて市民が手作りの芸術作品として、2011年、生誕140周年に初披露を目指している。実業家としても知られる貞奴は晩年。貞照寺と別荘「晩松園」を各務原市鵜沼積寺町に残した。命日に貞照寺で奉納コンサートを行うソプラの歌手、金光順子さん(同市)が中心になり、3年前からオペラの構想を温めていた。

明治・大正・昭和と近代日本の変換の中で生きた貞奴。台本を執筆する、作家、多治見市の藤本尚子さんは「スケールの大きい作品になる。バイタリティーや女性としての懊悩の部分も表現したい」と意欲を示している。オペラは3部構成で、第一部は東京・芳町で芸の道を歩み始めた芸者時代、若き福澤桃介との出会いが中心という。       2010年3月8日 中日新聞から

個別ページへ |Posted 2010.3.12|

名古屋開府400年・徳川宗春

 ときは、江戸の半ば。尾張の国に風変わりな殿さまがいた。徳川宗春がその人だ。藩主としての初名古屋入りでは、」かごを使わずに馬に乗り、水色のずきんにべっ甲の丸笠をかぶっていた。藩士はもちろん領民の度肝を抜いた。芝居や踊りを奨励し、名古屋の町は大賑わい。「名古屋の繁華に興(京)がさめた」といわれたほど”芸どころ”の礎を築いた宗春の登場により名古屋は都市として飛躍を見せた。今年(2010年)開府から400年を迎えた名古屋だが、いまひとつ元気が無い。沈滞ムードを吹き飛ばそうと大衆演劇祭「風流大名、徳川宗春」公演など多彩な400年行事が繰り広げられる。

宗春とは、尾張藩七代藩主。三代藩主綱誠の20男として1696年(元禄9年)に誕生。1703年、兄継友の急死により、藩主となる。 武士の芝居見物を自由化し、名古屋に芝居小屋が並ぶようになり、遊郭も許可したことで、三町に遊郭ができあがった。名古屋は人が集まって商売が盛んとなり、隆盛を極めた。その一方、突然の娯楽により、風土の悪化を招いた上、藩の財政が赤字化。綱紀粛正に転じたが、倹約主義、緊縮政策の将軍吉宗の怒りに触れ、1739年隠居謹慎を命じられた。その後。1764年に死去するまで幽閉される。「慈」と「仁」を柱にした「温故政策」を著した。町に出る時に、赤い着物を着て白い牛に乗った奇妙な格好で出掛けたことでも知られる。       2010年3月7日・中日新聞より

個別ページへ |Posted 2010.3.10|

式年遷宮「今、改革のときー未来のために」

神宮式年遷宮を4年後に控えた2009年11月3日、宇治橋渡染式が行われた。式年遷宮と同様、20年ごとに宇治橋を架け替えるのは、明治の時代になってからだ、1949年に予定した第59回式年遷宮が、戦後の窮状もあり延期される中、宇治橋だけは架け替えられた。その後59回は4年後に斉行され、以来、宇治橋は遷宮の4年前に架け替えられている。大工の作業を分散するとともに遷宮への興味を高める役割を果たしている。

宇治橋はじめ20年ごとの式年遷宮には、1万3000千本ものヒノキを用いる。最大の太さはの木は御正殿の扉になるもので直径が1.2mが必要だが、一枚板が取れるような木は入手不可能で、1929年(昭和4)年の式年遷宮を最後に一枚板ではなくなり張り合わせているそうだ。

神宮の式年遷宮は飛鳥時代に「天武天皇が定め、持統天皇の治世690年に第1回が行われた。そのご、戦国時代の120年におよぶ中断を乗り越え、1300年にわたって61回の遷宮が繰りかえされて来た。
この間、制度誕生と変わらない慣習を守り続けているといわれると思われがちだが、実はそうではない。時代の変化に翻弄されながらも、より良い方法を探りながら自ら変化しつつ、その上で信仰や文化を連綿と継承そ続けたのである。人口減少、少子高齢化が進行する中、新政権は動揺が収まらない建設業界にさらなる変革を求めている。式年遷宮同様、建設業も日本に不可欠の存在として。将来のために新たな橋を架け、永続させなければならない。(2010年1月3日・日・建通新聞より抜粋)

個別ページへ |Posted 2010.1.3|