話の広場
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チャイコフスキー(1840.5.7~1893.11.6)”くるみ割人形”

今日はクリスマス・・・クララの家でもお客さんを呼んで楽しいパーティが開かれます。魔術師のドロッセルマイヤー おじさんもやってきて、子供にプレゼントを渡します・・・クララに贈られたのはお世辞にも可愛いとは言えない奇妙なくるみ割り人形。でもクララはその人形がとても気に入り大喜びして人形を抱きしめました。マジック見習い中のドロッセルマイヤーの甥は、そんなクララの姿を見て淡い恋心を抱きます。

やがて夜も更け、パーティーはお開きに・・・夜中にそっと起き出して来るクララ、すると信じられない事が!ドロッセルマイヤーおじさんの魔術によりクリスマスツリーがみるみる大木になり、おもちゃの兵隊が動き出す、ネズミの大様率いるネズミ達と、クルミ割り人形率いるおもちゃの兵隊の戦闘が始まってしまう・・・「あ、私のくるみ割り人形が危ない!」クララが投げたシューズが命中し、ネズミの王様は退却、そしてくるみ割り人形はなんと美しい王子様に変身しました。

王子様はクララを「お菓子の国」に連れて行ってくれると言います。雪の結晶たちが舞い踊る中、クララと王子様は「お菓子の国」へ旅立つのでした。・・・すやすやと眠るクララは、ドロッセルマイヤーおじさんの魔法のおかげで、こんな楽しい夢をみることが出来ました・・・メリークリスマス!!(川口節子バレー団の発表会)

個別ページへ |Posted 2014.12.25|

電気の供給は日本の民主主義を守るための仕事

掲載時期は忘れたが、電気新聞に、作家の曽野綾子さんと、中部電力・三田敏雄会長の対談が載っていた。

三田会長の持論は「会社は社会と調和し、常に顧客や市場、会社と共にある」が「私たちの会社に対し、残念ながら今の社会の受け止めは厳しい。一生懸命に汗を流しているにもかかわらず、なかなか理解されないことに、社員には大きな心の負担がある」と語る。曽野綾子さんは「その答えは簡単。理解されると思うな。自分が役割を果たしているのなら、理解されることを期待してはいけない」と!!

人間の生き方についえて著作が多く、ダムや揚水発電所を取材小説も物した曽野さんは答えた。丁寧に説明する機会を作ることも大切だが、そもそも理解されると思うことが甘い」とも答えた。 ⇒ 三田会長は「きちんとやり通すことで、信念を貫けーと受け止めた。「電気の供給は、日本の民主主義を守るための仕事。民主主義を保ちたいなら、問答無用に働く。誰が何を言おうと、神様仏様が見ていらっしゃれば、それでいい」と曽野さん。

聖書には「神は隠れたところにあって、隠れたものを見ている」とう言語もあるそうだ。「安定供給を果たすことが最大の使命と、社員は分かっている。やり遂げることが大切」「日本流に言えば、お天道さまはちゃんと見ていらっしゃる」と三田会長は納得するも、焦燥感にとらわれがちな、緊張の日々が続く。(電気新聞「焦点」から引用)

個別ページへ |Posted 2014.10.31|

映画「ローマの休日」を彩ったスクター”VESPA”

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1953年、公開の映画「ローマの休日」でグレゴリー・ペック演じる新聞記者とオードリー・ヘップバンが演じるアン王女がピアッジ社製の「スクーター・ベスパ」に乗ってローマ市内を駆け回るシーンはあまりにも有名です。更には、ヒロインの王女を撮影しようとするエデイ・アルバートが扮したカメラマンは、初代フィアット500ポリーノを操って登場。カメラマンが新聞記者と、王女が二人乗りするベスパをポリーノで追走するカットも名シーンです。

写真は当時使用された「スクーター、ベスパ」と同じものが、2014.02.15.05.15まで、名古屋市名東区極楽にあるオリエンタルビル株式会社・NORTHで展示されました。そんな名画の名シーンを演出し、スクーターの原点とも言われ、世界中で愛されてきた「ベスパ」は、1946年にアビッシオ社のポンテデーラーの工場で誕生しました。ピアッジオ社は1884年にイアタリア・ジェノバで創業、船舶機や鉄道用車両の製造会社として成功しましたが、第2次世界大戦末期に連合軍によって空爆され、工場は廃墟と化してしまいました。

当時の代表者であったエリンコ・ピアッジオは、工場の再起と、イタリアの復興を担うこれからの時代のニーズとして庶民が便利に移動できる安価な乗り物としてオートバイに目をつけ、ヘリコプターの生みの親。コランディーノ・ダスカニオに開発を依頼しました。ダスカニオが早速、開発したオートバイは技術を随所に配した画期的な内容で、それはイタリアン・デザインの粋を集めて描かれた丸みを帯びたスタイルは、瞬く間に人々の心を掴みました。このオートバイはテールエンドへかけての膨らみが「蜂」のようであったことから「VESPA」の愛称を与えられました。



個別ページへ |Posted 2014.6.9|

三浦朱門氏・曽野綾子:作家夫妻が明かす夫婦関係

三浦朱門氏・曽野綾子氏は結婚60年、いま大活躍の作家夫妻が明かす夫婦関係、
そして人生の極意とはー?夫婦は他人。わかりあえないから面白い!

【結 婚 生 活】
夫婦喧嘩で夫が勝ってはいけない お互い「これくらい我慢しよう」が夫婦の愛情
【親との 同居】
夫婦も親子も「裏表」があっていい、嫁も姑も「少し嫌な思い」で折り合う
【親 子 関 係】
「子どもに取りつく親」になってはいけない、食卓で「悪」を語る、風通しのいい家に
【看護と看取り】
介護は片手間に、できるだけ手抜きをして 親の死は世間に知らせない
【老いの覚悟】5 0代から「一人で生きる」準備を始める老人も「少し無理をして」生きるべき
(2014年05月24日・日経新聞の朝刊広告から)

個別ページへ |Posted 2014.5.27|

名古屋市「100メートル道路」生みの親(田淵 寿郎)

「百メートル道路」に象徴される名古屋市街地の広い道路網。太平洋戦争で焼け野原となった市の復興の責任者として強力なリーダーシップを発揮し、都市計画を推進、自動車王国・名古屋の基盤を築いた 田淵 寿郎(1890~0974)は、広島県佐伯郡大竹町(現在・大竹市)生まれた。東京帝大で土木工学を修めた後、内務省の技師として各地の河川事業を手掛けた。
終戦直後、疎開先の三重県にいた時(1945年)に旧知だった「名古屋市長の佐藤正俊」に災害復興責任者として招かれ、焦土と化した街の復興計画を立案し1948年には助役として事業を指揮した。

計画は壮大だった。幅100メートルの道路2本(久屋通と若宮大通)を築き、50m、30mの幹線道路を中心部に張り巡らせた。 100m道路は市街地を分割して災害の拡大を防ぐのが大きな狙いだった。当時は一部の人しか車をもたなかった時代、大風呂敷広げたような計画だった。(この大風呂敷の話は「台湾を農業国にした東京帝大の土木部出身の八田與一」とよく似ている) 田淵自身が自叙伝に「100m道路つくり始めたころは、世間では飛行場を作るのか・・と笑った人がいた」と振り返っている。

道路を敷くには、徹底した区画整理が必要であった。宗教者の猛反対を地道に説得を重ねて、市の中心部にある墓地を平和公園(名古屋市千種区)に集中させた。現在では、田淵寿郎が手掛けた道路網は、押し寄せる自動車の波に順応して名古屋の大動脈として人と物の流れを支え続けている。

1995年頃、鳥取県の都市計画課長から愛知県の土木部長・名古屋高速道路公社の副理事長を務めた八田晃夫氏(台湾を農業国にした八田與一の長男)が「田淵寿郎の銅像設立」を提言したが、この100m道路の歴史を知る人が少なくて頓挫した。(201110.29.中日新聞の記事を 引用)

個別ページへ |Posted 2014.1.17|