台湾の独立運動の原点「二・二八事件」とは
今回テーマになっている事件は台湾史に残る大虐殺ですが、中国国民党による戒厳令時代には、この事件の名前を口にすることすら許されませんでした。国際政治学者の林建良氏もこの事件について初めて知ったのは、研修医として東京大学に来ていたときのこと…。だそうです。2月28日は台湾では「平和記念日」と呼ばれる祝日の日です。
73年前のこの日、台湾では「二・二八事件」と呼ばれる非常に残虐な事件が起こっていた。「二・二八事件」とは、1947年2月28日に台湾の台北市で発生し、蔣介石率いる中国国民党が台湾市民を弾圧・虐殺した事件です。当時人口600万人の台湾で、この事件の死者は3万人にも上ると言われています。ただ、実際被害にあった人の数は、当時の政府の圧力のせいで正確な数字は分かっていません。きっかけとなったのは、ある台湾人の女性が闇タバコを販売していたところを中国国民党の警察が摘発したこと。当時の台湾では、タバコは中華民国政府の専売品。一市民が許可なく販売することは許されていませんでした。
しかし、その女性が売っていた闇タバコのもとを辿ると、中国の高官が台湾人に無理やり売らせていたものだったのです。にも関わらず、その女性の摘発に当たった中国人はタバコの売上だけでなく彼女の全財産を没収。その場に居合わせた台湾人の市民は激怒したところ、警察は銃を発砲しながら逃走。その弾が、何の罪もない一人の台湾市民に当たってしまった。それをきっかけに台湾人と中国国民党の間で大衝突になりました。闇タバコを売った女性が原因ではない「二・二八事件」の本当の原因はもちろん、上に述べた自ら闇タバコを売らせておいて、それを摘発するというのも非常に汚い中国国民党ならではのやり口です。
「根本的な原因は、そのことではないんです。」とおっしゃいます。その理由は、蒋介石たちが乗り込んでくる前の台湾国内の様子を振り返ると見えてきます…というのも、台湾は戦時中も非常に豊かで、実に2年分の食料の備蓄があったと言われています。しかも、日本の敗戦以降、蔣介石が来るまでの2ヶ月間は無政府状態の台湾でしたが、日本統治時代のような平和と秩序がそこにはあったと言われています。
ところが蔣介石が台湾に乗り込んでから、外省人による略奪・暴行が多発し、潤っていた台湾もたった1ヶ月で大飢饉に陥ったのです。つまり「二・二八事件」とは、これまでの外省人に対する台湾の怒りが積もり積もって爆発した結果だったのです。「二・二八事件」が勃発した当初、台湾の行政長官は、市民に対して融和な姿勢で対話していました。しかし、二枚舌もいいところに、すぐに当時中国本土にいた蔣介石に電報を打ち、「台湾に軍を派遣するように」と連絡したのです。
1週間後、国民党軍は、台湾人を無差別に虐殺し、その被害者は一ヶ月で三万人とも言われています。その時、国民党軍に一番の標的にされたのは、台湾人エリート層でした。理由は、当時の台湾人エリート層は敗戦前の日本によって教育された集団。戦争中、日本軍に負け続けていた中国にとって、日本的な要素を持つ集団は一掃してしまいたかったのです。そういう理由で、「日本的な台湾人」は非常に残虐なやり口で処刑されてしまいました。未だに遺骨が見つからないエリート達がいます。
日本では全く報道されていない「二・二八事件」ですが、日本政府はこの事件を一切言及していません。台湾への見舞いや励ましのメッセージを、戦後70数年年たった今も発したことはありません。しかし、この事件が起こったのは1947年のこと。当時の台湾の主権を握っていたのは、台湾でも中国でもアメリカでもありません。1952年のサンフランシスコ講和条約締結まで、台湾は、日本主権の領土でした。つまり「二・二八事件」で虐殺さえた3万人もの知識人は、文化的にも法律的にも日本人でした。
筆者は、このことが日本では知られていないことを憂慮されている。しかし、日本のこの事件に対する無関心をきっかけに、台湾は「自分で自立しないといけない」という覚悟を持つようになったと言われています。そして、「二・二八事件」は台湾にとって独立と建国を進める原点になったと、おっしゃいます。(国際政治学者の林建良氏の「TAIWAN VOICE」から)
|Posted 2021.3.1|