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沖縄復帰五十年・低次元政治をやめる時代


公益財団法人・国家基本問題研究所・副理事長・田久保忠衛氏

私が返還前の沖縄に通信社記者として赴任したのは1969年だったから、もう半世紀になり。72年の返還式典はワシントンで取材した。ウチナンチュー(沖縄の人)とヤマトンチュウー(本土の人)を対立の構図で眺めていた当時の傾向は若干薄くなったように感じられるが、テレビや新聞に登場した沖縄の人々には復帰してよかったという晴々とした表情がない。復帰が決定した当時も、現場には日の丸を掲揚する風景は見られなかった。それが実態だった。

こだわりの原因のかなりにヤマトンチュウーの無教養がある。返還と同時に本土の企業が沖縄に進出した。そのとき、那覇に「日本人会」を作りたいと奉加帳を配った幹事がいたそうだ。沖縄の経済団体の幹部が半面泣きでワシントンに電話をしてきたことを思いだす。もちろん、この案はすぐつぶれたが、沖縄の人々の神経を逆なでする言動はいくらでもある。記念行事の本土側祝辞に「第二次世界大戦の痛ましい犠牲になった沖縄」の表現は必ず使われるが、ウンナンチューには釈然としないものが残るに違いない。

沖縄には「ゆかわり(世変わり)」との言葉がある。自分たちの意思に関係なく時代が変化した時代が三つあるというのである。第一は1609年の薩摩藩による軍事攻撃だった。沖縄が日本と中国による支配を同時に受けるようになった重要なできごとで「琉球征伐」と称されていたが、この表現は次第に改められるようになった。第二は明治維新に伴い、琉球藩(鹿児島藩の属藩)が設置され、さらに沖縄県になった。琉球王は東京の藩邸に移り、地元の人々は那覇港で別れを惜しんだが、王は二度を沖縄の地を踏むことはなかった。第三が先の大戦で沖縄の人々四人に一人が犠牲になった事件だ。本土復帰もヤマトンチューが深くかかわっている。

ヤマトンチューが「第二次世界大戦の犠牲」や基地問題を繰り返し言えば言うほど、ウンナチューは「われわれの苦しみがどれだけ分かっているのか」との気持ちになるのは当然だろう。同時にウンナンチューにも注文がある。月間「正論」6月号に評論家の篠原章氏が「沖縄が脱却すべき補助金依存体質」で槍玉に挙げている「沖縄復興予算」だ。返還の第一次振興計画から今年まで延長を続け、第五次までの累計は13兆2千5百億円(補正予算を含む)が沖縄に流れているという。

篠原氏によれば、この数字は積算根拠が乏しい予算で「政治的な駆け引きの産物」だという。例として革新統一候補として当選した太田昌秀知事が強引な政治力で橋本竜太郎首相と直談判し、4千7百13億円の空前の予算を獲得したケースが紹介されている。復帰後50年経っても政治的予算をなぜ必要とするのか。ヤマトンチューへ怨念をはらす、ウチナンチューの抗議はカネでかたづける低次元の政治はやめる時代に入った。沖縄の貴重な文化を残し、国際情勢の厳しさに日本人としてどうするかに全力を尽くすときだ。

 |Posted 2022.6.23|