家康と茶の湯(徳川美術館・加藤祥平氏)
天文11年(1542)12月26日、三河国岡崎城(愛知県岡崎市)城主・松平広忠の息子として誕生・幼名は竹千代・当時の松平家は。尾張の織田、駿河の今川と二大勢力に挟間れた国衆で天文15~16年(1543~47)に今川・織田から攻められたことを背景に、駿府で今川を支える親類衆の武将として、養育された。
諱は今川義元より偏諱(へんき)を受けて元信、次いで元康と名乗るが、永禄3年(1560)5月19日の桶狭間合戦で今川義元が織田信長に討たれたのち、信長と交戦後に和睦し、さらに永禄6年(1563)に息子(信康)と信長の次女・徳姫が婚姻し、信長と同盟関係になったことから家康と名乗る。永禄9年(1566)年5月に三河平定を果たしたのち、12月に名字を「徳川」と改める。
天正3年(1575)5月の長篠合戦で、信長とともに武田を破るなど、信長と強い同盟関係を築きながら勢力を伸ばすが、天正10年(1582)6月2日、本能寺の変で信長が明智光秀に討たれると、織田信雄(信長次男)・羽柴秀吉と織田信孝(信長三男)・柴田勝家とお織田政権内における主導権争いが勃発し、天正11年(1583年)4月賤ヶ岳合戦で秀吉が勝利した後は、秀吉の天下となるも、文禄5年(1896)には「正二位内大臣」に叙任され、秀吉に次ぐ官位官職を誇った。
慶長3年(1598)8月、秀吉が去ると、家康は豊臣政権内で最大実力者となり、慶長5年(1600)9月5日、関ヶ原合戦で石田三成や対抗勢力を排し、慶長8年(1603)2月12日、政治基盤を確固とし、戦国の世に終止符を打った。そして、元和2年(1616)4月17日、家康は駿府城にて生涯を閉じ、「東照大権現」として祀られた。
信長は、室町将軍家ゆかりの名物茶の湯道具(東山(殿)御物)を蒐集し、贈答に用いることで政治的価値付けをした。強制的な「名物狩り」と言われてきたが、実際には献上が多かったと考えられてりる。
秀吉は、その手法を踏襲しつつ、名物茶の湯道具を蒐集・使用することで信長の後継者であることを誇示していた。さらに自身の政権の発展を宣伝し、天正15年(1587)10月の北野大茶湯に代表されるように盛んに茶会を開いた。
家康も、信長と秀吉の時代に築かれた名物道具の価格体系をほぼそのまま受け継いだと考えられる。慶長20年(1625)大坂夏の陣で焼失した。
『東照宮御實紀附録』巻七に次の一節が記載されている。
あるとき、関白秀吉が諸大名を前にして「自分の宝は虚堂智愚(きょどうちぐ)の墨蹟・粟田口吉光(あわたくちよしみつ)どのの品々であるが、皆のものは何であるか尋ねたところ、毛利輝元や宇喜多吉光らが答えた。
家康は一人黙っていたので、どのような宝があるのか尋ねられた。
そこで家康は、「三河の片田舎の生れだから珍しい書画や調度などんの蓄えはないが、自分のためには水や火にも身を投じることを惜しまない五百騎ばかりがいる。彼らこそが宝である」と答えた。それを聞いた秀吉は幾分恥ずかしそうにして「そのような宝は自分も欲しいものだ}と返したという。
|Posted 2023.5.14|