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茶道千利休・明治維新に転機・もてなしの心女性が継ぐ(産経から)


明治維新で武家を中心とした社会が終わると、西洋文化を尊ぶ風潮の中で茶道は危機にひんする。「そんな状況から茶道が再出発する契機の一つが、女子教育との結びつきだった」と依田さんは振り返り、先駆者として跡見学園女子大(東京都文京区)の創立者、跡見花蹊(かけい)の名を挙げる。花蹊は天保11(1840)年、摂津国西成郡木津村(現・大阪市浪速区、西成区)で生まれた。跡見家は聖徳太子に仕えた迹見赤檮(とみの・いちい)を祖とする名家で大庄屋だったが、花蹊誕生時は没落していた。

ただ、風流人であった花蹊の父、重敬(しげよし)は中之島(大阪市北区)で私塾を開いており、絵画や書の才にあふれた花蹊が受け継ぐ。明治8年、花蹊は東京・神田仲猿楽町に「跡見学校」を開校、華族をはじめ上流階級の子女が集まった。開学当時の学科は国語、漢文、算術、習字、絵画、裁縫、筝曲、挿花、そして点茶(茶道)の9科目。武蔵大の大屋幸恵教授(芸術と文化の社会学)によると、当時の女学校は「良妻賢母」を育成する機関で、そのためのカリキュラムだった。だが「花蹊の教育がユニークなのは、単なる花嫁修業とは異なり、情操を涵養(かんよう)するための教育に力を注いだという点だ」と強調する。

花蹊は大阪時代、利休流の茶道を受け継ぐ武者小路千家の茶人に入門し、茶の湯をたしなんでいる。女性が茶の湯を修練する必要性について、<何をしても点茶を習って置けば、花を一枝(ひとえだ)生けるにしても、茶を注(つ)いで出すにしても、床(ゆか)しさが見えるものです>と書き残している。大屋さんは「茶の湯が人格形成にもプラスの影響を及ぼすと、花蹊は考えていたと理解できる」と話す。

「現代にこそ利休の教えを」戦後も、女性が社会進出する一方、専業主婦化が進み、結婚戦略として「たしなみ」を身につけるべく茶道人口は増加した。ただ平成に入ると減少に転じる。特に女性の減少が顕著だ。総務省の社会生活基本調査によると、令和3年の茶道人口は約92万人で、男性約18万人、女性約74万人。10年前と比較すると、男性が約2万人減、女性は約76万人減と一気に半減した「近年は女性の高学歴化や晩婚化で、『たしなみ』のメリットを失った」。大屋さんはこう分析する。

こうした現状は、利休の教えに通じる「もてなし」の精神や、にじみ出る立ち居振る舞いといった、茶道によって得られる文化の喪失につながると危惧する。利休の教えを書き留めたとされる『南方録』に、ある人が茶の極意を尋ねたエピソードがある。利休は「夏はいかにも涼しきように、冬はいかにも暖かなるように、炭は湯のわくように、茶は飲みかげんがよいように、これが秘事のすべてです」と答える。

尋ねた人が「誰でも分かっていることだ」と興ざめすると、利休は「それができたなら、私はあなたの弟子になりましょう」と言ったという。当たり前のことをすることが難しいという利休の教えで、「相客に心せよ」などの条を加えた「利休七則(しちそく)」「利休七ケ条」として知られる。こうした利休の心を大切にした茶席について、大屋さんは説く。「他者の立場でものを考え、状況を考慮しつつ、他者の期待を上回る成果を達成しようとするコミュニケーションの実践だ。利休が生きた戦乱の時代と同じように異文化理解が不可欠な現代にこそ、大いなる意義を有している」

個別ページへ |Posted 2022.9.5|

原子力・火力復活で日本再興(月刊誌「正論」社会保障研究所代表・石川和夫)

【無理があった電力自由化】原子力・火力復活で日本再興から抜粋(月刊誌「正論」8月号から)

2016年に電力全面自由化が実施され、すべての消費者が電力会社や料金メニューを自由に選べるようになりました。しかし、現状では、火力発電所に対する投資意欲はほとんどありません。

電力小売りを自由化してバラ色の電力市場ができるはずだったに、電力需給は逼迫するし、料金は値下げどころか値上げ傾向に拍車がかかっているのは、この全面自由化が大失敗だったことを物がったっています。

全面的に火力発電所の老朽化や廃止が進みながらも新増設が進まない現状をどうするか。全面自由化以前の「総括原価方式」を原子力や大型火力発電所などのついて復活させることで、火力発電の価値が正当に評価されるよういにすれば、電力会社や投資家が「割に合う」と判断できて、資金が火力発電に回って新増設が促されるようになるはずです。

火力発発電を見直すとともに、原子力発電の再稼働も必要です。日本とドイツを除いた各国は原子力発電を増やしつつあります。アメリカでも中国でも原発の新設が進んでいます。原発の再稼働が遅々として進まない日本では近年、夏や冬やのたびに電力不足が叫ばれるようになりました。原子力規制委員会が安全性を審査するのは当然でしょうが、それは原発を動かしてからでもできることです。実のところ東日本大震災後に全原発で安全性の確認は終わっているのです。

規制委員会は、活断層対策やテロ対策の新設をどんどん上乗せしていますが、これは福島の原発事故とは無関係のことです。このようにゴールポストを動かすようなことうを、国は波風を立てたくないので容認してしまいました。震災(2011年)の翌年、民主党の野田佳彦首相(当時)は、福井県の西川一誠知事(当時)んと会談して合意を取り付け、関西電力大飯原発三・四号機の再稼働を決めました。

あれは、野田首相が西川知事に頭を下げて頼み込んでいたのです。なりふり構わず動いたのだ首相は見識があったと思います。まともな首相と知事がいれば、原発は再稼働でできるのです。日本の政治家は危機時での国民への説得力も持っていないのでではないか??今、原発を再稼働の決断をすれば、夏には間に合わないものの、今度の冬には十分に乗り切れるるはずである。

※このホームページの管理者が思うこと。

日本発送電株式会社(戦後の沖縄を除く)が、国内の電力供給に責任をもっていたが、1951年5月1日付けで、松永翁の構想により「地域別の9電力会社に分割」して、責任をもって発電と供給の責任を持たせたことが、日本の電力業界を発展させた。

これを「政治家が電力自由化」で推進した。この自由化に向かうために、政治家は2000年ころから15年以上の時間と金と労力を無駄にしていると思う。将来、2015年までのように、沖縄電力を含めて10電力会社が「発送電」の責任をもつ体制に変換すれば、国民と企業のためになると考える。

個別ページへ |Posted 2022.8.6|

月間正論8月号から転載【安倍晋三の意思を継げ】

安倍晋三元首相が凶弾に斃れて3週間が経とうとしています。2022年8月1日発売の月刊「正論」9月号では、政治評論家の屋山太郎氏が「念願は憲法改正して普通の国になること」と題して、親交のあった安倍氏の死を悼んでいます。

この中で屋山氏が取り上げたのが、第二次安倍内閣での内閣法制局長官人事でした。安倍元首相は限定的ながらも集団的自衛権の行使を可能とする安全保障関連法制を整備するにあたり、憲法解釈の変更に抵抗する内閣法制局に風穴を開けるため、国際法の専門家ではあるが法制局勤務経験のない駐仏大使だった小松一郎氏をあえて長官に据えたのでした。

「安倍氏は断固として小松氏を法制局長官に起用し、(集団的自衛権をめぐる)法解釈の大転換を断行したのである」屋山氏はこのように記し、安倍元首相の決断を高く評価しました。

安保法制が平成27年9月(2015年)に成立した後、安倍元首相は産経新聞のインタビューに対し、小松氏と、同じく集団的自衛権の憲法解釈の変更に尽力した岡崎久彦元駐タイ大使について「小松氏、岡崎氏は一命を賭して法制のために尽くしてくれた。それだけ日本の安全にとって、意義のある法制だと思っている。何とか成立することができてよかった。合憲性には確信を持っている」と二人の功績をたたえました。その上で「安保関連法は日米同盟の前進、強化につながっていく」と強調しました。

その後、米国ではトランプ政権が樹立しました。(2017年1月20日)安倍元首相はしばしば「安保法制が成立していなかったら、日米同盟は大変なことになっていた」と振り返っていました。小松氏は重い病が発覚してからも集団的自衛権の限定容認に道筋をつけるまで長官を続け、文字通り身命(しんめい)を賭したのでした。この年の11月30日、「産経新聞報道検証委員会」が開かれた際、小松氏のことを取り上げたのが残間里江子委員(当時)でした。

「9月22日に(安倍)首相が、安全保障法制の整備に尽力した岡崎元大使と小松前長官の東京都内の自宅をそれぞれ弔問したという小さな記事には、心に響くものがあります。こういう細やかな文章の中に首相の思いを読み取る読者も多いと思います」麗澤大学客員教授で拉致被害者を救出するための全国協議会会長でもある西岡力氏は、拉致事件と歴史戦を安倍元首相と共に戦ってきました。西岡氏は「命懸けだった闘いの記録」の中で、安倍元首相が「殉職した」と表現しました。

「私は『暗殺』という言葉は使わない。『暗殺』は受け身の表現で憎むべき犯人を主語にした言葉だ。だが『殉職』は安倍さんを主語にした言葉だ」と西岡氏は説明します。それぞれの筆者がそれぞれの立場で、安倍元首相を偲ぶとともに、遺志を受け継ぐ決意を示しています。

安倍元首相の論考、対談、インタビューをまとめた9月号増刊「不屈の政治家 安倍晋三」ともども是非お読みください。

個別ページへ |Posted 2022.8.1|

劇団民芸・箕浦康子の”一人芝居”(岐阜高校卒業から俳優へ)

「思いで話」
このホームページ管理者の同級生、東京の「劇団・民芸」で活躍する箕浦康子(1960年卒)の一人芝居「不断煩悩得涅槃(ふだんぼんのうとくねはん)~宝暦騒動聞書」の初公演。脚本と演出は恩師の「こばやしひろし」(劇団はぐるま代表)だった。芝居は、こばやしひろしの代表作「郡上の立百姓」のサイドストーリーといえる内容で、一揆に加わらなかった農民の苦悩や葛藤を描いた。箕浦は一揆の指導者に恋心を募らせながら嫁いでいく女性を演じた。80分の公演が終わると、楽屋に入りきれない仲間が押し寄せた。

一人芝居の初公演の道のりは平たんではなかった。1986年「アーサーミラー作」の「るつぼ」に出演して「紀伊国屋演劇賞」を受賞した副賞の「20万円」を、そのまま、こばやしひろしに手渡した。「一人芝居に挑戦したいんです。台本を書いてください」と頼んだ。台本はすぐに出来上がった。しかし、一人芝居といっても照明や音響、大道具と小道具などの裏方は欠かせず、公演には多額の費用が必要。民芸の舞台が忙しかったこともあり、計画はなかなか進まなかった。

そんな状況を聞いて、演劇部のOBが立ち上がった。1997年「劇団はぐるま」が裏方を引き受けることになり、公演の日程が決まって、三日間の幕が降りた。カーテンコールになった時、舞台のそでから突然、脚本家で演出家の「こばやしひろし」が歩み寄った。「おれからの賞だ」と封筒を差し出した。「御浪ホール賞」と書かれた封筒には、箕浦が台本を依頼した時と同じ「20万円」が入っていた。

2022年9月~11月、「内館牧子作」の「すぐ死ぬんだから」の”一人芝居(朗読劇)”が「俳優・泉 ピン子」で、全国展開される。期待している。

箕浦康子の母校「岐高ミニ校史」岐阜高校は1873年(明治6年)旧尾張藩奉行所跡の建物を利用し「岐阜町小学義校が開校した。この時、付設された「仮中学」が、岐阜高校の前身、岐阜県立第一中学と改称され、その後、名称変更を繰り返し、1948年、岐阜女子高校と統合し、岐阜県立・岐阜高校となった。

校訓の「百折不撓(ひゃくせつふとう」「自彊不息(じきょうふとう)」あ、生徒同士がたゆまぬ努力でともに能力を向上していく、といの意味。クラブ活動は野球部が春夏合わせて6回、甲子園に出場している。

個別ページへ |Posted 2022.7.13|

2022年7月10日の参議院議員選挙(産経新聞の抜粋)

2022年7月10日投開票の参院選には545人(選挙区367人、比例代表178人)が立候補し、令和元年の前回参院選の370人(選挙区215人、比例代表155人)に比べ約1・5倍と大幅に増えた。政党要件を満たさない諸派が多数の候補者を擁立していることが背景にある。インターネットを駆使したり、特定の政策を前面に出したりして浮動票を取り込み、報道各社の調査では議席獲得が視野に入る団体もある。

「諸派乱立」の背景。今回、比例代表に届け出た諸派は「幸福実現党」「ごぼうの党」「参政党」「日本第一党」「新党くにもり」「維新政党・新風」の6団体だ。初挑戦の参政党は全45選挙区に候補者を擁立し、比例代表には5人が出馬。自虐史観からの脱却など保守的な政策を訴えて街頭で多くの聴衆を集め、平成25年解禁のネットを使った運動も活発だ。比例代表での1議席獲得も視野に入れる。同じく初参戦で複数の芸能人が支持を表明するごぼうの党も11人を擁立。幸福実現党は選挙区と比例代表合わせて12人を立てる。

「諸派乱立」の背景について麗澤大の川上和久教授(政治心理学)は、「3年前の前回参院選で『NHKから国民を守る党』(現NHK党)やれいわ新選組のようにムーブメントを起こし、議席獲得に結びつける手法をまねようとしている」と分析する。令和元年の参院選でN党は、NHKを批判するワンイシュー(単一争点)で受信料に不満を持つ有権者らの支持を得て比例代表で1議席を獲得。政党要件に必要な得票率2%も超えて国政政党になった。今回は82人も擁立している。元タレントで知名度の高い山本太郎氏が代表を務め、消費税廃止を訴えたれいわも前回、比例代表で2議席を獲得して国政政党に躍り出た。

諸派の活動が活発化したのは、昭和58年参院選での比例代表制導入がきっかけになったとの見方がある。それまでは無所属でも「全国区」で立候補できたが、制度導入により無所属での出馬ができなくなり、政治団体から立候補するケースが増えた。同年参院選では「サラリーマン新党」や「福祉党」などの政治団体が議席を得た。

の後、既成政党への不信感の高まりなどから「ミニ政党」ブームが起こり、平成元年参院選では、40の政党・政治団体から最多の670人(選挙区285人、比例代表385人)が立候補した。ブームは4年12月の公選法改正で立候補に必要な供託金が引き上げられて沈静化。自民党と旧民主党の「二大政党制化」も進み、諸派が割り込む余地を狭めた。

今回は旧民主党勢力などの野党共闘の足並みに乱れが生じる中での参院選だ。野党が政権批判の受け皿になりきれない中、諸派による擁立が相次いだとみられる。筆者の川上氏は「立候補者の増加は有権者の選択の幅が広がり、投票率の向上につながる」と歓迎する一方、有権者側からも積極的な情報収集が必要との見方を示している。(2022年7月7日産経新聞ネット版から)

個別ページへ |Posted 2022.7.7|

沖縄復帰五十年・低次元政治をやめる時代


公益財団法人・国家基本問題研究所・副理事長・田久保忠衛氏

私が返還前の沖縄に通信社記者として赴任したのは1969年だったから、もう半世紀になり。72年の返還式典はワシントンで取材した。ウチナンチュー(沖縄の人)とヤマトンチュウー(本土の人)を対立の構図で眺めていた当時の傾向は若干薄くなったように感じられるが、テレビや新聞に登場した沖縄の人々には復帰してよかったという晴々とした表情がない。復帰が決定した当時も、現場には日の丸を掲揚する風景は見られなかった。それが実態だった。

こだわりの原因のかなりにヤマトンチュウーの無教養がある。返還と同時に本土の企業が沖縄に進出した。そのとき、那覇に「日本人会」を作りたいと奉加帳を配った幹事がいたそうだ。沖縄の経済団体の幹部が半面泣きでワシントンに電話をしてきたことを思いだす。もちろん、この案はすぐつぶれたが、沖縄の人々の神経を逆なでする言動はいくらでもある。記念行事の本土側祝辞に「第二次世界大戦の痛ましい犠牲になった沖縄」の表現は必ず使われるが、ウンナンチューには釈然としないものが残るに違いない。

沖縄には「ゆかわり(世変わり)」との言葉がある。自分たちの意思に関係なく時代が変化した時代が三つあるというのである。第一は1609年の薩摩藩による軍事攻撃だった。沖縄が日本と中国による支配を同時に受けるようになった重要なできごとで「琉球征伐」と称されていたが、この表現は次第に改められるようになった。第二は明治維新に伴い、琉球藩(鹿児島藩の属藩)が設置され、さらに沖縄県になった。琉球王は東京の藩邸に移り、地元の人々は那覇港で別れを惜しんだが、王は二度を沖縄の地を踏むことはなかった。第三が先の大戦で沖縄の人々四人に一人が犠牲になった事件だ。本土復帰もヤマトンチューが深くかかわっている。

ヤマトンチューが「第二次世界大戦の犠牲」や基地問題を繰り返し言えば言うほど、ウンナチューは「われわれの苦しみがどれだけ分かっているのか」との気持ちになるのは当然だろう。同時にウンナンチューにも注文がある。月間「正論」6月号に評論家の篠原章氏が「沖縄が脱却すべき補助金依存体質」で槍玉に挙げている「沖縄復興予算」だ。返還の第一次振興計画から今年まで延長を続け、第五次までの累計は13兆2千5百億円(補正予算を含む)が沖縄に流れているという。

篠原氏によれば、この数字は積算根拠が乏しい予算で「政治的な駆け引きの産物」だという。例として革新統一候補として当選した太田昌秀知事が強引な政治力で橋本竜太郎首相と直談判し、4千7百13億円の空前の予算を獲得したケースが紹介されている。復帰後50年経っても政治的予算をなぜ必要とするのか。ヤマトンチューへ怨念をはらす、ウチナンチューの抗議はカネでかたづける低次元の政治はやめる時代に入った。沖縄の貴重な文化を残し、国際情勢の厳しさに日本人としてどうするかに全力を尽くすときだ。

個別ページへ |Posted 2022.6.23|

変質したダボス会議 (M古川氏の発信から)


スイスの山深い保養地ダボスで、「世界賢人会議」とも呼ばれる世界経済フォーラム年次総会、いわゆるダボス会議が先日、開催されました。通常、1月下旬に開催されるダボス会議ですが、今年は新型コロナウイルスのため5月に延期しての開催となりました。今回、ウクライナへの軍事侵攻を行なったロシアの参加を排除するという、ダボス会議としてはきわめて異例の措置が取られました。

というのもダボス会議は、立場が違う者が一堂に会する場を提供するところに意味があると考えられてきたからです。もともとダボス会議が世界の注目を浴びるようになったのは、東西冷戦終結後です。ダボス会議の起源は、東西冷戦時代に東西の指導者が休暇と称してダボスに行き、スキーを楽しむ一方で密かに行われていた指導者同士の会談にあります。それが冷戦終結につながったと言われているのです。

その場をアレンジしていたのが、世界経済フォーラムの創設者シュワブ博士です。それがその後、次第に大きくなって、いまや世界中から数千人の人が集まるほどの会議となったのです。したがって今回のようにロシアを排除するのは、もともとの会議の趣旨からは外れるものなのです。それゆえ今回の対応に「ダボス会議は変質した」との声が出ています。私はこれまで13回ダボス会議に参加しましたが、私もそう思います。はたして今後、ダボス会議はどうなっていくのでしょうか。

個別ページへ |Posted 2022.6.3|

ふるげんメールレター [衆議院議員古川元久]を貼付(2022.05.13)


【沖縄本土復帰50年に寄せて】
2022年5月15日で戦後、アメリカ統治下にあった沖縄が本土に復帰して50年になります。
しかし今でも沖縄の人たちは本土に対して複雑な思いを抱いています。

もちろんそこには過度に沖縄に集中する米軍基地などの問題もありますが、
沖縄の人たちの思いを本当に理解するためには17世紀まで沖縄の歴史を遡ることが大切だと思います。
沖縄は、もともとは1429年にできた琉球とよばれた独立王国でした。

その地理的な有利性を活かし、中国や日本をはじめ周辺諸国と貿易を行い栄えていました。
その琉球に1609年、薩摩藩が侵攻し、以後、琉球王国は事実上、薩摩藩の植民地となったのです。
明治に入って廃藩置県が行われた際には、いわゆる琉球処分によって強制的に琉球王国は廃され、沖縄県となりました。

そして太平洋戦争末期の1945年のアメリカ軍との凄惨な戦い、いわゆる沖縄戦があり、戦後、50年前までアメリカ統治下に置かれたのです。
沖縄の人たちの本土に対する複雑な思いの背景には、こうした長い歴史的な本土との関係があるのだと思います。
私たち本土の人間の多くが、沖縄のことを知っているようで知りません。
私自身も沖縄が本土復帰50年を迎えたこの機会に、もう一度、沖縄のことをいろいろと学び直してみたいと思います。

個別ページへ |Posted 2022.5.13|

偽政者の自滅は歴史の教訓・慶応大学教授・磯田道史氏(産経2022.04記事を貼付)


聞き手⇒聞き手 産経・酒井充氏
新型コロナウイルスのパンデミック(世界的大流行)収束を待つことなく、ロシアがウクライナを侵攻した。自由主義国家と権威主義国家の摩擦はますます深刻化し、現代社会に不可欠な「エネルギー」をめぐる秩序も大きく揺らいでいる。ごく短期間に大きく変容した世界の情勢に、歴史から読み取れる知恵はあるのか。歴史家で国際日本文化研究センター教授の磯田道史氏に聞いた。

2年前、新型コロナのパンデミックが始まった春に、3つの懸念を警告した。嫌だが当たった。第一、コロナは波状的に襲ってきて長く暴れる。第二、権威主義国家と自由主義国家の違いが大きくなる。第三、スペイン風邪後の国際政局が第二次大戦に向かったごとく、パンデミック後は外交・軍事が極端な方向に走りやすい。

事実、権威主義と自由主義の摩擦が深刻化した。その場所は「不安定の弧」と呼ばれる断層線だ。広い意味では北方領土・台湾海峡・カシミール、ロシア・ウクライナ国境で、この線を戦場にしてはならない。価値多様性の混在域にして紛争を予防する工夫が世界史上、われわれの課題だ。

170年前、識字率は地域差が大だった。教育史のカルロ・チポラによれば西欧・北欧で6~9割、ロシアは1割以下。1割では自由な市民社会は生じにくい。エリートが思想・経済を統制して発展を引っ張り権威主義のタテ型国家を成す。他国への侵攻コストは想定より大きい。国際社会を敵に回した単独行動ではなおさらだ。だがタテ型国家の指導者にはそれが見えにくい。豊臣秀吉も朝鮮が明への道案内をしてくれるとみて侵攻。死後、政権が自滅した。日本の識字率は150年前に4割前後だったが、大日本帝国も大陸に手を出す代償を甘く見た。

それでも、やってしまうのが歴史の教訓だ。独裁国の軍・情報機関では強制が日常で、自信過剰で誤った侵攻が決断される。批判の自由があるヨコ型国家では暴走が止められるが、タテ型国家では無理だ。批判は敵、拒否は裏切り者にされる。ロシアのキーウ占領と体制転換を狙った意図は挫折した。前近代の戦いは占領されなければ安全だったが、現代では逆だ。占領されなくても都市への無差別爆撃ができ、民間人の死傷が増える。それに強い懸念を覚える。

国の力は軍事、経済、知、人口という総合的な力でできている。軍事力だけ高めても目的の達成が難しいことはロシアを見ても分かる。大事なのは政権批判もできる国家の健全性だ。無理筋の侵攻が起きてしまうのは、人口の見積もり、経済・知性の尊重、言論の自由がないからで、秀吉もそうだった。それが失敗のもとになり得ることをかみしめたい。

個別ページへ |Posted 2022.4.19|

ウクライナ危機を聞く(東大名誉教授・北岡伸一氏)

主要国は1920年、第一次世界大戦の反省に立ち国際連盟を発足差させた。1928年には不戦条約で、戦争そのものを違法化した。だが、1929年に始まった大恐慌で、民主主義の米英仏は弱体化し、逆にスターリンのソ連は著しく台頭していた。

そのはざまで、日本とドイツの脆弱な民衆主義は軍部やナチスにおされて弱体化していた。日本が1931年に起こした満州事変に米英も国際連盟も有効な手を打てず、世界は第二次世界大戦に歩んでしまった。

ロシアによるクリミア併合などでも西側は有効な手を打てなかった。2021年のアフガニスタンの政権崩壊で米国の威信は失墜した。国際秩序の弱体化を見てロシアが大胆な行動にでた。ウクライナ危機の教訓として

第一に軍事力のバランスに注意して、周辺国の脅威に備え、準備を怠らないことだ。第二次大戦前、英仏はドイツの戦車や航空戦力に十分対応できなった。米国も日本が真珠湾を奇襲する力をつけていることに気がつかなかった。

第二に、自由主義諸国の連帯を強めておくことだ。ドイツがウクライナへの武器供与に踏み切ったこと、欧米諸国で北大西洋条約機構(NATO)入りの機運が高まったことは極めて重要である。日本も連帯の一翼を担うべきだ。

第三に、国連や国際法も重要だ。ロシアが本当にの無差別攻撃に踏み切れないのは、国際法が一定程度、機能しているからだ。ロシアは1991年に解体したソ連を継承して安保理事常任理事国になったが、国連憲章ではこの変更が反映しておらず、今も「ソビエト社会主義共和連邦」が常任理事国になっている。

この点などを追求し、ロシアを常任理事国から外す決議を総会で採択してはどうか。実効性はともかく相当な圧力になる。

中国はロシアの行為を「侵略」と認めず、あいまいな態度を続けている。国連で多数をロシア非難に結集することは、中国への強いけん制となる。中国は従来、途上国のリーダーと自称してきたが、多くの途上国は先の国連総会でロシア非難決議に賛成した。このままでは、中国は世界のリーダーになれないだろう。(聞き手・日経新聞秋田裕之の記事の一部を転載した)

個別ページへ |Posted 2022.3.24|