話の広場
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夏太りを招く意外な理由とは?

理由1:夏は「糖質が多い」食事が多くなる
夏になると、そうめんや冷やし中華などの冷たい麺類や、アイスやかき氷など食べてしまいませんか?夏についつい食べてしまうこれらの「食べ物」は、太る原因となる「糖質」がたっぷり。こうした夏特有の「糖質の多い食生活」が「太り」を招くのです。そうめん一束の糖質量・35g、めんつゆ(100g)糖質9g。この糖質量は角砂糖14.6個分です。

理由2:夏は運動量が減る
夏は暑く、熱中症の心配もあるため、ウオーキングなど、屋外での運動を避けてしまいがちです。普段は通勤などで歩く習慣がある人も、汗や日焼けなどが気になるため、車やバスでの移動に変えてしまうことも多いのではないでしょうか?こうして運動が減ると、エネルギーの消費量も減ります。同じ量を食べてもエネルギーが減るので、夏太りしてしまうのです。
(シックスセンスラボ(株)のマガジンから)

個別ページへ |Posted 2018.7.12|

元台湾総統・李登輝氏「日本人よ、後藤新平の心を取り戻せ」(NEWSポストセブンから)

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かつて日本が世界へ雄飛し始めた頃、日本人には高潔な精神があった。内向きになったと言われる今はどうか。新たな年を迎え、台湾の元総統、李登輝氏(94)が未来を担う日本人に訴える。2014年、私はウェッジから『李登輝より日本へ贈る言葉』という本を出版した。その第7章には「これからの世界と日本」と章題を付けたが、これは日本や台湾が直面している混沌とした国際情勢にいかにして立ち向かっていくべきか、など日頃から考えていることを書いたものだ。

この本が出版されて3年以上が経った。しかしこの間、国際社会には日本を悩ます難題が山積し続け、不透明感が増し、情勢はむしろますます激変を続けているといえる。こうした混沌とした時代、さまざまな課題を抱える今の日本に必要なものは何か。

私はそれが「人生の先生」と仰ぐ後藤新平の精神だと考えるのである。

2007年5月、私は家族とともに日本を訪れ「奥の細道」を散策する機会を得た。ただ、この訪日にはもう一つの目的があった。この年、藤原書店が創設した「後藤新平賞」の第1回受賞者に光栄にも選ばれ、授賞式に出席することになったのである。授賞式の席上、私は「後藤新平と私」と題した記念講演を行い、「後藤は私の先生です」と述べた。とはいえ、第4代・児玉源太郎総督のもとで民政長官として後藤が辣腕をふるっていた時期に、私はまだ生まれていない。

後藤は1857年生まれ。1923年生まれの私が生きてきた時代とは大きな開きがあるのだ。そのため後藤と私との間に空間的なつながりはあるものの、お互いを結びつける交差点は見当たらない。しかしながら、後藤の生い立ちや、その後の台湾における輝かしい業績を辿ることにより、私は計り知れない人間的な偉大さを感じ、自分自身に深く滲みこんでいるものを感じるのである。

◆9年で「一世紀にも等しい」発展を果たした
台湾1895年の下関条約で台湾は清朝から日本へ割譲された。初代総督の樺山資紀から第3代の乃木希典まで、台湾の開発は端緒についたばかりであった。1898年、第4代台湾総督として児玉が発令を受けると、児玉源太郎は後藤をナンバー2の地位にあたる民政局長(後の民政長官)に起用する。

後藤はもともと医師出身の内務官僚だったが、日清戦争後の大量の帰還兵士23万人の検疫を見事にやり遂げ、その行政手腕が児玉源太郎の目に留まったのである。その後、民政長官として在任した9年あまりの間、後藤は指導者としての力量を遺憾なく発揮し、台湾は未開発社会から近代社会へと、「一世紀にも等しい」と言われるほどの開発と発展を遂げることになる。当時の台湾は匪賊が跳梁跋扈して治安が悪く、マラリアをはじめとする疫病が蔓延する危険な地であった。のみならず、アヘン吸引者も多く、産業にみるべきものもなく、まさに未開発の状態だった。

そこでまず後藤が着手したのが人事刷新の断行であった。着任するや高等官以下1080名の禄を食むばかりで仕事をしない官吏を更迭し、日本内地へ送り返すとともに、新渡戸稲造をはじめとする優秀な人材を幅広く台湾へ呼び寄せたのである。続けて台湾の産業発展の基礎となる公共衛生の改善、台湾経営の財源確保のための事業公債発行、台湾北部の基隆と南部の高雄を結ぶ縦貫鉄道の建設、基隆港の築港を進めた。

そしてこれらのインフラ整備を完成させると、砂糖、樟脳などに代表される具体的な産業開発と奨励をしたことで、台湾の経済発展の軌道を定めたのである。私が幼いころ、家は地主で、父は組合長も務めていた。祖父はお茶畑を持ってお茶を作りながら、同時に自治会長にあたる「保正」でもあった。清朝時代から続いてきた集落の自治制度である保甲制度(*)は、後藤がそのまま存続させた。台湾が日本の領土となっても、台湾の人々に無理のない「生物学的見地」からの統治を考えた人でもあったともいえるだろう。

【10戸で1甲、10甲で1保とした自治組織。役員として、甲には「甲長」、保には「保正」が置かれた。】

◆天皇・国家のために尽くす
今日の台湾の繁栄は後藤が築いた基礎の上にあるといえる。この基礎の上に新しい台湾を築き、民主化を促進した私は、後藤とも無縁ではないと思っている。つまり、時間的な交差点はなくとも、空間的には強いつながりを持っているだけでなく、後藤新平と私個人の間には精神的な深いつながりがあるのである。

政治家には二種類の人間がいると言われる。まずは権力掌握を目的とする者、そして、仕事を目的とする者だ。権力にとらわれない政治家は堕落しない。私は総統時代に指導者の条件として、「いつでも権力を放棄すべし」を自らに課し自制していた。

普通の人が権力を持った時、非常に幸福であり、快楽であると思うことが多い。それはやりたい放題で、なんでもできるからだ。しかし、後藤は明らかに後者、つまり、仕事のために権力を持った人であった。私と後藤に共通するのは「信念」であったといえる。私はクリスチャンで、信仰を通じて最終的に見出した私自身のあり方が「我是不是我的我」、つまり「私は私でない私」であった。

この言葉は、新約聖書のなかにある「ガラテヤの信徒への手紙」の「生きているのは、もはや、私ではない。キリストが、私のうちに生きておられるのである(後略)」という一節からきている。つまり私、李登輝のなかに神が息づいていて、自分のためだけでなく公のために生きなくてはならない、ということである。一方で、後藤の信仰は何だったかというと私は寡聞にして知らない。しかし、おそらく「天皇」もしくは「国家」という公のために尽くすという「信念」があったのだろうと推察する。だからこそ、第4代台湾総督の児玉源太郎から片腕として信頼され、台湾の近代化をやってのけたのである。

そうした意味で、私はクリスチャンではあるものの、強い信仰心、信念を持って事に当たっていくという意味では、後藤は私の先生であると言えるのである。国家の浮沈は、ひとえに指導者にかかっている。社会や個人の成功が経済や富であると考える風潮が蔓延している今こそ、指導者は「公」に尽くすことに一生を捧げた後藤の精神を学ぶべきであろう。

a1.jpg【PROFILE】李登輝
●1923年台湾生まれ。旧制台北高校、京都帝国大学農学部で学び、戦中は志願兵として高射砲部隊に配属された。終戦後、台湾大学に編入し卒業。台北市長、台湾省主席、副総統を経て1988年に総統就任。1996年に台湾初の総統直接選挙で当選し、2000年まで務める。

個別ページへ |Posted 2018.1.24|

本田 圭祐(プロサッカー選手)が小学校の時に書いた作文

ぼくは大人になったら、世界一のサッカー選手になる。世界一になるには、世界一の練習をしないとダメだ。だから 今 頑張っている。今は下手だけどれどもガンバッテって 必ず世界一になる。そして 世界一になったら 大金持ちになって ぼくは外国から呼ばれて ヨーロッパのセリエに入団します。そして レギュラーになって 10番で活躍します。

一年間の給料は40億円はほしいです。プーマとけいやくしてスパイクやジャンバーを作り 世界中に人がこのぼくの作ったスパイクやジャンバーを買っていってくれることを夢みている。一方 世界中のみんなが注目し 世界で一番さわぐ 4年に一度のWカップに出場します。

セリエAで活躍しているぼくは 日本に帰りミーティングをし 10番をもらってチームの看板です。ブラジルと決勝戦をし 2対1でブラジルを破りたいです。この得点も兄と力を合わせ 世界の強ごうをうまくかわしいいパスを出し合って得点を入れることがぼくの夢です。
(このホームページ管理者が購読している書籍から)



個別ページへ |Posted 2018.1.12|

クリスマスはイエスの誕生日? (社会学者 橋爪大三郎)

12月24日がイブで、25日がクリスマス。
この関係が、子供心に意味不明だった。イエスはいったいいつ生まれたのだろう?  聖書を勉強して思った。ユダヤ歴では日没を境に翌日だ。それを午前0時で区切ったから、イブと25日に分かれたのでは。あと分かったこと。福音書に、12月25日に生まれたとは書いてない。クリスマスがイエスの誕生日だとは。どこにも書いてないのだ。

じゃ-クリスマスは何なのか。詳しい本によると、クリスマスはもともと冬至だったらしい。ミトラ教という宗教の、冬至に死んでまた生まれる神のお祭りが人気だった。新興のキリスト教はそれにぶつけて、12月25日を「イエスの誕生日」にして祝うようになった。 ともかくクリスマスは、キリスト教の祝日に定着した。

ギリシャ正教では1月7日に祝う。ユリウス歴12月25日にあたる日である。教会の最初は待隆節(アドベント)、クリスマスまでの四週間だ。→感謝祭(11月第四木曜)→クリスマスの順に寒くなる。

日本ではハロウイーンが終わるとすぐにクリスマス商戦に突入。奇妙な感じだ。 クリスマスは「キリスト教的」ではないから、祝わないプロテスタント教会も多かった。クリスマスツリーは古いヨーロッパの俗信で、異教的。日本人のイメージするクリスマスのスタイルは、ニューヨークのデパートが広めたとも言う。

クリスマスもバレンタインデーのように、商業主義が広まっただけのものなら、イエス・キリストと無関係に、デートスポットでデイナーを予約するカップルはが、クリスマスをいちばん正しく理解しているのかもしれない。(引用・日本経済新聞「明日への話題」2017.12.19)

個別ページへ |Posted 2017.12.21|

恵那・岩村城に信長の叔母が城主に・・・(鎌倉時代)

岐阜県恵那市の岩村城には戦国時代、女性が城主を努めた時期があった。NHKの大河ドラマ「おんな城主 直虎」の主な舞台である遠州(現在の静岡県)とも連携し、美濃の「女城主の里」で観光客を呼び込もうとしている。名古屋駅から電車で90分。

岐阜県第三セクター、明智鉄道の岩村駅から古い街並みを一キロあまり歩くと「岩村城跡」が見えてくる。織田信長の叔母「おつや」が16世紀後半に城主となったと伝わる城のあとだ。

岩村城は、鎌倉時代中期に築かれたと伝えられる山城、霧が城の別名もある。高取城(奈良県)、備中松山城(岡山県)と並ぶ日本三大山城の一つとされる。武田信玄の家臣だった秋山虎影に攻められた際、病死した夫の城主、遠山景任の後を継いだのが織田信長の叔母「お直」だった(諸説ある)。江戸時代は松平氏の居城となり、明治維新後、解体された。

近年、岩村城を含めた恵那市への観光客は374万人を超えた。(このホームぺの管理者は、若い時、某劇団の団員として岩村城の跡地で合宿をした。城の跡地にあった夫婦松は見事であった)

個別ページへ |Posted 2017.6.21|

台湾での「2・28」事件

70年前(1947年)、鬱積(うっせき)していた中国国民党政権への不満が各地で反政府活動として火を噴き、それを国民党政権は厳しく弾圧した。当時の緊迫した情勢を描いた1989年の映画「非情城一」で広く知られるようになった。

▼国民党による独裁体制の下にあって、事件は長らくタブーとされていた。いまも真相は十分に究明されたとはいえない面がある。たとえば犠牲者の数。当局は18,000人~28,000人とする推計を明らかにしたことがある。だが、実際には10万人におよんだとの声や、逆に、1万人に達していないという見方が出ている。

▼とりわけ解明が進んでいないのは当局の動きのようだ。先週(2017年2月20日の週)、蔡 英文総統は「被害者だけがいて加害者のいない現状は改めなくてはいけない」と述べ、かって「白色テロ」の追及に意欲を示した。関連する公文書の機密解除につとめる考えも明らかにした。過去と向き合い、人々の和解をめざす取り組み、と、いえようか。

▼いうまでもないが、歴史の検証はもとになる資料があってこそだ。当局が公文書を残していなければ、難しくなる。ひるがえって日本である。自衛隊の南スーダン派遣部隊の日報をめぐるドタバタ。大阪府豊中市の国有地の売却に関する交渉記録の破棄。歴史の検証に堪えようという気概は、霞が関から伝わってこない。 (2017年2月28日・日本経済新聞・春秋)

個別ページへ |Posted 2017.6.21|

元号 世相を映す(元号に基づく 漢字の2文字が原則)

元号は古代中国で、天子(王)が時間を支配するとされたことから成立した制度。皇帝や王が時間を支配することから成立した制度。皇帝や王が治世の最初の年を「元年」と定めて、そこから「何帝(または王)の何年」のように年を数えた。最初の元号は前漢の武帝が年号を建てて「建元」元年(西暦前140年)と定めたのが始まりとされる。元祖の中国は清朝を最後に元号を使っていない。「大化の改新」があった645年から用いられた「大化」の元号が日本最古とされる。これまでに247回の元号が使われた。日本では、同じ元号が2度使われたことはない。


天皇一代に元号は一つという「一世一元」の制度は明治時代から始まった。それ以前は天災や疫病が起こったり、おめでたい兆しが表れたときに、同じ天皇でも元号を改めることがあった。元号は古代中国の影響を大きく受けている。例えば、平成は「史記」五帝本記の「内平らかに外成る」、「書経」の「地平らかに天なる」との記述から文字が取られた。 「国の内外、天地ともに平和が達成される」という意味で、当時の世相を反映した元号となった。 1974年大平内閣で元号法が 制定された。わずか2つの項からなり、「元号は、政令で定める」「元号は、皇位継承があった場合に限り改める」とされている 。

平成の元号は①国民の理想としてふさわしいような、よい意味をもつもの②漢字2文字であること③書きやすいこと④読みやすいこと⑤これまでに元号または贈り名として用いられたものでないこと⑥俗用されているものでないこと・・・という6つの方針にのっとって選ばれた。

戦後、新憲法の施行に伴って旧皇室典範が廃止されて以来、元号は法律的根拠を失った。その後も国民は元号を変わりなく使ったが、法律上は「慣習として使っている」にすぎなかった。保守系団体が元号法制化の働きかけを強め、自民党が呼応した。元号により紀年法に法的根拠を与え、制定当時は「戦後史の一つの節目」との評価もあった。年の途中で改元すれば、元号を使う公文書やカレンダー、硬貨への表記に影響がでる。昭和から平成への移行では、硬貨に新元号を刻印する機械の準備に時間がかかり「昭和64年」も使用した。

政府は2019年1月から新たな元号を適用する案を検討。準備期間を設けて混乱を少なくするため、新元号を早ければ2018年前半にも公表することを探る。日本がめざす理念や国民の願望を漢字で表すとどうなるかを考えてみると、新元号に近づくかもしれない。これまでに元号に用いられた漢字は72文字で、予測のヒントになりうる。

247の元号のうち、4文字は5回、ほかはすべて2文字だった。最も多いのが「永」の29回、「元」「天」の27回、「遅」の21回、平成の「成」は新規で、「平」は12回目の登場だった。以前候補に挙がったものや、これまでに用いられた漢字の新たな組み合わせで新元号が決まる可能性もある。 【元号法第一項・元号は政令でさだめる。第二項・元号は皇位の継承があった場合に限り改める】(2017年1月22日・日本経済新聞から)

個別ページへ |Posted 2017.3.6|

【 障子を開けよ、外は広いぞ 】豊田佐吉の言葉(2017年は生誕150年)

中国最大の都市、上海、市街地を貫くように流れる黄浦江から西に10キロメートルほど移動すると、こじんまりした、れんが作りの建物が目に入る。周辺は集合住宅や庶民的な構えの飲食店が並ぶありふれた街並みだが、ここはおよそ1世紀ほど前に豊田佐吉氏が「豊田紡織廠」を構えた跡地だ。1918年、日本の紡織会社の間で中国進出が盛んになった。佐吉も進出を企てるが、周囲は慎重な姿勢を崩さない。

佐吉は、「(中国は)古い友人で、格別の人間関係をもたねばならない」と力説。そうしてこう諭した。【障子を開けてみろ、外は広いぞ】初めての海外事業は失敗のリスクも大きいが、佐吉は腹をくくる。上海郊外の旧フランス租界に邸宅を構え、まず個人事業として紡織工場の建設に熱中した。学生のころから目をかけた右腕の「西川秋次氏」も呼び寄せ、経営体制を整備。製造した綿糸布は中国に加えシンガポールなどにも輸出した。

佐吉は1930年に亡くなるが、西川氏が意志を継ぎ、1930年代半ばには上海工場は日本の工場を上回ってグループ最大規模になる。ここで出た利益は自動車事業の立上げにも役立ち、戦後も中国の紡織業復興に向けて、民間レベルで日中親善を実現してみせた。現在、トヨタ自動車は海外26カ国・地域で50以上の生産拠点を設け、トヨタ車の販売は170カ国・地域を超えている。

豊田綱領が掲げる「産業報国」は「進出した地域・町いちばんの企業になる」という言葉に置き換えられた。世界的に保護主義の色合いがじわりと濃くなるが、その真価が改めて問われようとしている。(2017年2月10日経新聞) このHP管理者は6年前に現地を訪問。中国政府によりこの記念館の取壊しが宣言されたと聞く。が、多くの民衆の声で現存している。

個別ページへ |Posted 2017.2.11|

ゴルフのロリー・マキロイが東京オリンピックに出場しない

世界のゴルフ界で有名選手「ロリー・マキロイ」選手が、東京五輪い参加しないと表明した。ジカ熱への感染を懸念してスター級がほとんど出なかったリオ五輪に続き、凡戦を見せられるのかとがっかりである。日本経済新聞に「個人の選択なので尊重してほしい」とコメントが来た。

日本の衛生状態はブラジルほど心配はいらないぞ!とブツブツ言っていたら、事情は全然違った。マキロイ選手は英国とアイルランドの二重国籍。リオ五輪ではアイルアランドから出ると決めたが、金メダル候補に逃げられた英国でかなり悪く言われたらしい。嫌気がさしてジカ熱を理由に出場を取りやめたというのが真相だ。

したがって、 五輪参加が国単位である限り出場する気はないそうだ。大会ごとに国籍を変える渡り鳥選手ならともかく、生まれつき二重国籍なのは彼の罪ではない。五輪憲章には「選手間の競争であり、国家間の競争ではない」と書いてある。メダル競争に奔走する国が多いせいで、居場所を失う選手がいるのは残念だ。だから、二重国籍に目くじらを立てるべきでないと書くと、異論を唱える人が多いだろうが、二重国籍気嫌いの愛国者であればあるほど東京五輪が低調でよいとは言うまい。

ゴルフは特定国に有力選手が偏りがちで、世界ランク30位までに米国選手が12人も入っている。国別の参加枠を取り払い、個人参加にした方が絶対盛り上がる。(2017年1月16日・日本経済新聞「春秋」)

個別ページへ |Posted 2017.1.23|

オバマ大統領 広島での演説全文(2016.05.27)

このホームページ管理者は「2016.05.27.広島市平和記念公園でのアメリカのオバマ大統領が行った演説の格調の高さに感銘して掲載することにした。

演説骨子

  • 広島訪問は亡くなった日本人、朝鮮半島の人々、米国人捕虜を追悼するためだ
  • 科学の進歩に見合うだけ人間社会に進歩がなければ破壊が訪れる
  • いつか、証言をしてくれる被爆者の声を聞くことができなくなる日が来る
  • 恐怖の論理にとらわれず核兵器なき世界を追求する勇気を持たなければならない
  • 広島と長崎は、核戦争の夜明けとしてではなく、我々の道義的な目覚めの始まりとして記憶されるだろう

【キノコ雲に人類の矛盾】
71年前のよく晴れた雲のない朝、空から死が降ってきて世界は変わった。閃光(せんこう)と火の壁が町を破壊し、人類が自らを滅ぼす手段を手にしたことを示した。我々はなぜここ広島を訪れるのか。それほど遠くない過去に解き放たれた。恐ろしい力について思いを致すためだ。亡くなった10万人を超える日本の男性、女性、子供たち、数千人の朝鮮半島出身の人々、そして捕虜になった十数人の米国人を追悼するためだ。
彼らの魂は我々に内面を見つめ、我々が何者であるか、これからどのようになっていくのかを考えるように語りかけている。
広島を際立たせているのは戦争という事実ではない。歴史的な遺物をみれば、暴力による争いが初期の人類からあったことが分かる。我々の初期の祖先は石から刃物を作り、木からヤリを作る方法を学んだ。こうした道具を狩りだけでなく、同じ人類に対しても用いるようになった。
世界の文明の歴史は穀物不足や黄金への欲望、民族主義や宗教的熱意といった理由で、戦争で満ちている。帝国は台頭し、衰退した。人々は支配されたり解放されたりしてきた。節目節目で苦しんできたのは罪の無い人々であり、数え切れない彼らの名前は時とともに忘れさられてきた。
広島と長崎で残虐な終わりを迎えた世界大戦は、最も豊かで強大な国の間で起きた。彼らの文明は世界に偉大な都市、素晴らしい芸術をもたらしてきた。思想家は正義と調和、真実という概念を発展させてきた。しかし戦争は初期の部族間であった支配や征服と同じような本能から生まれてきた。新たな能力が、支配欲や征服欲が争いを呼ぶという古くからの構造を増幅させた。
数年の間におよそ6千万人の命が奪われた。我々と変わらない男性や女性、子供たちが銃撃され、打たれ、連行され、爆弾に巻きこまれた。投獄されたり、飢えたり、ガス室に送りこ込まれたりした。
世界各地には勇敢で英雄的な行動を伝える記念碑や、言葉には言い表せないような邪悪な出来事を反映する墓や空っぽの収容所など、戦争を記録する場所が数多くが存在している。
しかし、この空に上がったキノコ雲の姿は、人類が持つ矛盾を強く思い起こさせる。我々を人類人類たらしめる思考、想像力、言語、道具を作る能力、我々を自然と区別し、自然を自らの意志に従わせる能力は、大きな破壊的な力も生み出した。

【広島は真実を告げている】
いかにして物質的な進歩や革新がこうした事実から目をくらましてきただろうか。崇高な理由のために暴力をどれだけたやすく正当化してきただろうか。
すべての偉大な宗教は愛や平和、正義への道を約束している。しかし、どの宗教も信条のもとで殺人が許されると主張する信者を抱えてきた。
国の台頭は人々の犠牲と協力を結びつける物語として語られてきたが、人類を抑圧し、人間性を奪う理由にも使われてきた。科学の力で、我々は海を越えて対話し、雲の上の空を飛び、病気を治し、宇宙の真理を知ることができるようになった。しかし同じ科学の発見が、効率的な殺人の機械を生み出すこともある。
近代の戦争や広島(での原爆被害)はこの真実を告げている。科学の進歩に見合うだけ人間社会に進歩がなければ破壊が訪れる。原子核の分裂を可能にした科学の進化と同様、道徳の進化も求められている。
だから我々はこの場所を訪れる。広島の真ん中に立ち、原爆が落とされた時に思いをはせる。目の前の光景に子どもたちが味わった恐怖を感じる。
声なき悲鳴に耳を傾ける。あのひどい戦争やそれまでの戦争、そして未来の戦争の罪なき犠牲者全員に思いを寄せる。
言葉だけではそのような苦しみに声を与えることはできない。歴史を真っすぐに見つめ、再び苦しみを生まないために何を変えなければいけないのかを問う共通の責任がある。

【恐怖の理論から逃れよ】
いつか、証言をしてくれる被爆者の声を聞くことができなくなる日が来る。しかし1945年8月6日朝の記事は絶対に消えてはならない。この記憶によって我々は独りよがりではいられなくなる。道徳的な想像力がかき立てられ、変わることができるようになる。
そしてあの運命の日から、我々は希望ある選択をしてきた。日米は同盟だけでなく友情に鍛え、戦争で得られるよりもはるかに大きな利益を勝ち取った。
欧州の国々は連合体を築き、戦場を商業と民主主義の連帯(の地)に変えた。抑圧された人々や国々は自由を得た。国際社会は戦争を回避し、核兵器を制限、削減、ついには廃絶するための機構や条約を作った。
それでも、国家間の紛争やテロ、腐敗、残虐性、抑圧が世界中にあり、道のりが遠いことを思い知る。人間が悪を働く力をなくすことは難しく、国家や同盟は自分自身を守る手段を保持しなければならない。
しかし我が米国をはじめとする核保有国は、恐怖の理論から逃れ核兵器のない世界を目指す勇気を持たなければならない。私の生きているうちには、この目標を達成することはできないかもしれない。しかしたゆまぬ努力により惨劇の可能性を後退させることはできる。
新たな国や狂信者たちに恐ろしい兵器が拡散するのを止めることもできる。しかし、それだけでは十分ではない。世界をみれば、非常に原始的なライフル銃や樽(たる)爆弾がどれだけ大きな破壊力を持つか分かる。
我々は戦争そのものへの考え方を変えなければならない。外交の力で紛争を防ぎ、紛争が起きたら終わらせようと努力をすべきだ。国と国が相互依存関係を深めるのは、平和的な協力のためで、暴力的な競争のためではない。軍事力によってではなく、何を築き上げるかで国家を評価すべきだ。そして何にも増して、同じ人類として、互いのつながりを再び考えるべきだ。それが、人間が人間たるゆえんだ。
遺伝情報のせいで、同じ過ちを繰り返してしまうと考えるべきではない。我々は過去から学び、選択できる。過去の過ちとは異なる物語を子どもたちに語ることができる。我々は同じ人間であると伝え、戦争を今よりも起きにくくし、残虐さが簡単には受け入れられなくなるような物語だ。
我々はこうした物語を被爆者から学ぶ。原爆を落としたパイロットを許した(被爆者の)女性は、憎むべきはパイロット個人ではなく戦争そのものだと理解していた。日本で殺された米兵の家族を探し当てた(日本人)男性は、米国人も自分と同じように家族を亡くした喪失感を抱えていると感じた。

【我々が選びうる未来】
私の国の物語はシンプルな言葉で始まる。「すべての人は平等で、神によって生命や自由に加え、幸福を追求する譲歩不可能な権利を与えられている」
この理想を実現することは米国内の米国市民であっても、決して簡単なことではない。しかし、この物語を実現することは、努力に値する。それは努力して、世界中に広められるべき理想の物語だ。
我々全員は、すべての人間が持つ豊かな価値やあらゆる生命が貴重であるという主張、我々が人類という一つの家族の一員だという、極端だが必要な概念を語っていかなければならない。
我々は、その物語を語るために広島に来る。そして愛する人のことを考える。朝起きてすぐの子どもたちの笑顔、夫や妻とのテーブル越しの温かなふれあい、そして親からの温かな抱擁。
こうしたことに思いをはせ、そしてそんな素晴らしい瞬間が、71年前この広島にもあったことを知る。亡くなった人は、我々となんら変わらない人たちだった。
普通の人ならこうしたことが分かるだろう。彼らは、これ以上戦争が起きることは望まない。彼らは科学は、生命を奪うためでなく、生活をより良くするために使われるべきだと考えている。
国家や指導者がこうした単純な知恵を使って、(国の方向)を選択するならば、広島の教訓が生かされたことになる。
ここ広島で、世界は永遠に姿を変えてしまった。しかし今日、この町の子どもたちは平和の中に生きている。なんと貴重なことか。それは守られるべきことで、世界中の子どもたちが同じように平和に過ごせるようになるべきだ。
それが我々が選びうる未来だ。そして、その未来の中で広島と長崎は、核戦争の夜明けとしてではなく、我々の道義的な目覚めの始まりとして記憶されるだろう。
(2016年5月27日・17時30分頃~アメリカ・オバマ大統領の平和記念公園での演説全文・2016年5月28日・日本経済新聞の朝刊)

個別ページへ |Posted 2016.6.9|